公営田(くえいでん)という言葉には、以下三段階のレイヤーがあります。
まず、一番広い意味としては、民間人が経営する私営田に対し「国家直営の田地」という意味。ただし、日本史にしか使いません。
次に少し範囲が狭まって、律令国家において財政不足を補うために設定された官田・勅旨田・諸司田など、朝廷や地方官衙が設置した田地という意味があります。もちろん国家(地方含めた)直営の田地という意味は含まれています。
そして、もっとも狭い意味として、平安時代前期(9世紀)に大宰府管内(及び一部その他地域)で導入された公営の田地制度を指します。
教科書に載っている公営田は、一番狭い意味での公営田ですね。
そもそも律令制度においては「公地公民制」ですので、全ての土地は国のものですから、全てが「公営田」のように思えてしまって、分かりづらいかと思いますが、国は、一般民衆に土地を給付するんですね。
これが口分田で、その口分田を受け取る代わりに、租庸調などの租税を納める義務があるというわけです。
ここも一つポイントですが、「租(=収穫物の3%)」のイメージが強いので、課税対象が土地や収穫物という風に見えますが、こちらあくまでも納税主体は、土地を給付された「個人」にあるわけです。国⇔個人というのが律令制度では基本だったわけです。
ところが、公営田では、口分田という形で個人に給付するのをやめて、公営で耕しちゃおうということにいたのです。
「これだけの土地があるんだから、これだけ納税しろ!」という形に切り替わったわけです。
公営とはいえ、実際には人々を集めて、その人々に耕作してもらう必要があるので、地元の有力者を管理者として公営田の運営責任を負わせるわけですね。そして、有力者だけで耕せるわけもないので、人々を集めて、その人たちには生活費だけ渡して耕作してもらうわけです。
で、実際に収穫があがったら、租庸調分にあたる金額は中央の朝廷に送って、余った分は地元(大宰府とかその周辺国の国衙)の収入としたわけです。
ようは、公営田を導入したことによって、これまで民衆個人単位に、租・調・庸を徴収することを廃したことになるのです。
公営田の導入は、人別課税を基本とした律令制支配から「土地課税を重視した支配への転換」を示す最初期の例となるので、重要視されているんですね。この後、さまざまな形の公営田(2番目に広い意味での公営田です)が出てくるようになりました。