第52代天皇。在位809‐823年。桓武天皇の息子、平城天皇の同母弟。平城天皇の退位後に天皇になります。桓武天皇は第一子である平城天皇を皇太子としましたが、彼の素行が定まらず、一番君主としての器量・素養がありそうな嵯峨天皇を寵愛します。平城天皇が即位すると、その後継者として皇太子となりました。これは桓武天皇の意向が働いていたとされます。
その後、嵯峨天皇が平城天皇から譲位を受けて即位をすると、平城の息子である高岳親王を皇太子としましたが、薬子の変にてこれを廃して、嵯峨天皇の異母弟である大伴親王(のちの淳和天皇)を皇太子としました。そして、嵯峨天皇が淳和天皇に譲位すると、淳和天皇は嵯峨天皇の息子を皇太子(のちの仁明天皇)とし、仁明天皇が即位すると、今度は淳和天皇の息子である恒貞親王を皇太子とするたすき掛け人事のような皇位継承の流れとなりました。
整理すると、平城(兄)⇒嵯峨(弟)⇒高岳親王(甥)×⇒淳和(弟)⇒仁明(甥)⇒恒貞親王(父は淳和、母は嵯峨の娘、仁明の妹)という継承が予定されたのです。
嵯峨上皇が存命の間は、薬子の変以降約40年間にわたって、平穏な治世が流れ、また、このたすき掛け的な皇位継承に関する紛争も起きませんでした。しかし、淳和上皇が840年に、嵯峨上皇が842年になくなると、同842年に「承和の変」が勃発。当時皇太子だった恒貞親王に仕えていた伴健岑と橘逸勢が謀反を企んだとして捕縛、皇太子もこれに連座して廃されました。新しい皇太子には、仁明天皇の息子である道康親王(のちの文徳天皇、母は藤原冬嗣の娘)が立てられました。承和の変を主導したのは、藤原良房(藤原冬嗣の息子)だったとみられ、変後に大納言に昇進しています。
嵯峨天皇の話に戻って、嵯峨天皇が存命の間には文化的にも唐風文化が広まり、平安仏教の代表者である最澄には、822年の彼の死後ではありますが、同年822年に彼の悲願であった大乗戒壇の設立を認め、空海には翌823年に東寺を与えました。また、嵯峨天皇自身も達筆で有名で、「平安の三筆」に数えられています。(他の二人は、空海と橘逸勢。)