橘諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王で、臣籍降下して橘姓となりました。第30代敏達天皇の後裔で、美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたります。官位は正一位・左大臣。
藤原四兄弟やその他有力者が天然痘で相次いでなくなると、738年に聖武天皇によって右大臣に任命されて、一躍太政官の中心的存在となりました。これ以降、国政は橘諸兄が担当するようになり、吉備真備・玄昉らをブレインとして抜擢して聖武天皇を補佐しました。
740年に橘諸兄政権への不満から藤原広嗣の乱が起きますが、数ヶ月で平定。743年には従一位・左大臣に叙任され、さらに749年4月にはついに正一位にまで昇進しました。生前に正一位に叙された人物は日本史上でもたった6人と数少ないです。また残りの5人のうち、2人は天皇の生母・外祖母であり、最後に生前叙位された明治時代の三条実美は没する寸前でしたので、純粋に官職を昇りつめて正一位の状態で政務にあたったことがあるのは、藤原仲麻呂・藤原永手と橘諸兄の史上3人に限られています。
しかし、749年8月に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、藤原仲麻呂の発言力が増すようになり、橘諸兄の勢力は減退していくようになりました。757年1月6日に死去、享年74。最終官位は前左大臣正一位。諸兄の没後間もない同年7月に、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死。