吉備真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。716年第9次遣唐使の留学生となり、翌年に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐。唐で学ぶこと18年に及び、その間、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。唐においても知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどでした。
聖武天皇時代の734年10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、翌735年に多くの典籍を携えて帰国しました。唐での学問の成果を活かして、順調に出世を重ね、738年に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と玄昉は共に重用されていきます。藤原氏の勢力が衰えていくことを危惧した藤原広嗣が、740年に真備と玄昉を除かんとして大宰府で反乱を起こしますが、敗死(藤原広嗣の乱)。
真備は、以降741年に東宮学士(東宮は皇太子の意)に任ぜられ、皇太子・阿倍内親王(内親王は、天皇の娘の意。聖武天皇の娘で、のち孝謙・称徳天皇)の指導・教育にあたりました。
藤原仲麻呂が台頭し、橘諸兄一派が権勢を失っていくと、750年以降九州地方への左遷。752年には遣唐使副使としての唐へ派遣されるなど、中央から遠ざけられるようになりました。帰国後も754年に再び九州地方に下向し、長く地方での仕事に従事します。764年正月に70歳となった真備は、大宰府へ引退文を提出しますが、孝謙上皇に亘る前に帰京がかなえられ、同年9月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画しました。真備は中衛大将として仲麻呂追討軍を指揮し、兵を分けて仲麻呂の退路を断つなど優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げました。
765年には藤原仲麻呂の乱平定の功労により再び、中央政界で出世を重ねていき、最終的には766年に従二位・右大臣にまで昇進して、左大臣・藤原永手と並んで太政官を領導しました。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真の二人のみの快挙でした
771年に引退、以降の事跡は伝わっておらず775年に81歳の長寿で死去。