第41代天皇にして、天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)、日本史上3人目の女性天皇。
657年、13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎます。ちなみに中大兄皇子は彼女だけでなく他にも自分の娘3人、計4人を弟の大海人皇子に嫁がせています。
671年に大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したときには、大海人皇子と持統天皇の息子である草壁皇子を連れて従いました。
672年の壬申の乱では、『日本書紀』に大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったと記されています。
乱に勝利し、大海人皇子が天武天皇となると、その皇后に立てられました。
その後、685年頃から天武天皇が病気がちになると、皇后として代わって統治者としての存在感を高めていき、686年7月に、天武天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになりました。
686年に天武天皇が死去すると、その死去した日の翌日に大津皇子の謀反が発覚します。この大津皇子は、天武天皇の息子の中で非常に有能とされた人物で、母親は持統天皇の同母姉妹でしたし、持統天皇の息子である草壁皇子の一つ年下だったということもあり、持統天皇からすると草壁皇子が天皇位を継承するにあたって最大の障害だったのです。
大津皇子の謀反計画の詳細は分かりませんが、発覚の翌日、すなわち天武天皇の死去二日後に大津皇子は自害してその生涯を閉じました。
これで持統天皇は問題なく、草壁皇子が天皇位を継承すると思いましたが、天武天皇の喪が明けない689年4月13日にその草壁皇子が27歳の若さで早世。草壁皇子の息子である軽皇子(のちの文武天皇)はまだ七歳と幼少であったことから、母であり天武天皇の皇后だった、持統天皇が天皇として即位することになったのでした。
持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させる位置付けとなりました。飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱です。
そして、最愛の息子草壁皇子の忘れ形見である孫の軽皇子に、697年譲位を果たし、その即位を見届けることが出来ました。