中国揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡ってきた僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるようお弟子さんの誰かを日本に寄越してもらえないかと懇請されました。要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけましたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はおりません。そこで鑑真自らが渡日することを決意すると、それを聞いた弟子21人も随行することを決めました。その後、日本への渡海を5回にわたり試みましたが、悉く失敗。6度目の正直で、754年に遂に日本の平城京へとたどり着きました。
平城京に到着した鑑真一行は、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなりました。754年4月に鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けます。これが日本での登壇授戒のはじまりとなり、以降、戒律制度が急速に整備されていきました。
759年に唐招提寺を創建しました。鑑真は戒律の他にも、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えました。763年に唐招提寺で死去。享年76。
死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像を造り、現代まで唐招提寺に伝わっています(国宝:唐招提寺鑑真像)。