第75代天皇。在位1123年‐1142年。鳥羽天皇の第1皇子で。母は白河法皇の養女の藤原璋子(待賢門院)。しかし、父である鳥羽に徹底的に嫌われます。一説・俗説によると母である藤原璋子は鳥羽に嫁ぐ前に白河と関係があったと噂され、実の父は鳥羽ではなく白河なのではないかという話があります。鳥羽は系図上は子どもだけと、本当は叔父だということで「叔父子」と呼んだとも。ただ、この話は崇徳天皇誕生後100年経ったあとの文書に出てくる話で真偽不明です。とはいえ、どう考えても父・鳥羽には嫌われぬかれます。自分の息子である重仁親王を将来的に天皇にするといわれたので、譲位したのに、鳥羽は自分の息子(崇徳からしたら弟)たちを天皇とし続けます。このままでは、自分と自分の家系に未来がないと思った崇徳上皇は、鳥羽法皇死後の1156年(保元元年)に保元の乱を起こしますが、後白河天皇に敗れ、讃岐に配流されました。天皇・元天皇の配流は、奈良時代の764年に起きた藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇以来約400年ぶりのことでした。
流刑地では、穏やかに乱での戦没者たちへの鎮魂のために写経に努め、それを京都の寺に納めて欲しいと願いますが、後白河側はこれを拒否。崇徳が讃岐で死んだあとも徹底的に無視を続けた結果、日本三大怨霊の一人として知られる怨霊伝説が生まれます。
ちなみに、明治より前は、天皇家・貴族が実権を失い、武家の世の中となったのは崇徳上皇の呪い・怨念によるものとされていました。凄まじいですね。