源頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。
清和源氏の嫡流として源義朝の三男として生まれます。三男ですが、長男・次男とは母親の身分が隔絶しており、当初から嫡子扱いをされていました。父・義朝が1159年に平治の乱を起こすと、まだ13歳の頼朝もともに戦闘に加わります。しかし、敗北。父と東国に逃れる途中ではぐれて、捕虜となりますが、平清盛によって命を救われ、伊豆国へ配流となりました。
その後、平氏政権の全盛期を流人として20年を過ごします。このまま流人のまま終わるかと思いきや、1180年に平氏討伐の以仁王の令旨が出ます。これを受けて、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧。弟たちを代官として源義仲や平家を倒して武家政権を打ち立てました。
さらに戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼしました。後白河法皇が死去した建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられ、名実ともに鎌倉幕府が整えられていきました。
頼朝によって、平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれることになります。