壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦い。平家滅亡の戦いです。合戦の序盤は平氏が優勢でしたが、潮の流れが反転すると源氏が猛攻撃をしかけ、平氏の船隊は壊乱。勝敗は決しました。これにより、安徳天皇・二位尼(平時子、清盛の正妻)の入水をはじめとして、名だたる平氏の老若男女がその最期を迎えました。平家の総帥となっていた宗盛(清盛の三男、時子の子としては第一子)と、その嫡男の清宗、建礼門院(安徳天皇の母、清盛と時子の娘)などは、生け捕りにされました。宗盛と清宗親子は、京都を引き回されたのち、鎌倉へ護送。その後1185年中に斬首。建礼門院は平家の菩提を弔って1214年に亡くなりました。
ざっくり用語解説
壇ノ浦の戦い
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