平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年(1159年)12月9日(ただし、ユリウス太陽暦だと1160年1月19日)に発生し、翌3月まで争われた、院近臣らの対立により発生した政変です。
保元の乱に勝利した後白河天皇は、その側近である信西とともに、国政改革(主に荘園整理ですね)を推進しました。信西は、改革推進のために平清盛と平家一門を重用します。これらに不満を抱いた藤原信頼と源義朝が、清盛が熊野参詣に出ている隙をついて、クーデターを起こしました。信西は追い詰められて自害し、信頼と義朝が政権を握ったやに見えました。清盛は、信西だけでなく、信頼とも誼を通じていたので、信頼は信西がいなくなった後は、清盛は自分に味方してくれるだろうと思っていました。実際、熊野参詣から京都に戻ってきた清盛は、信頼に恭順の姿勢を示します。しかし、清盛は、反信頼派と気脈を通じて、二条天皇と後白河上皇を手許に取り戻し、信頼・義朝討伐の兵を挙げました。錦の御旗を失った信頼・義朝はあっけなく敗れ、信頼は処刑され、義朝は東国へ落ち延びる途中に家来に裏切られて暗殺。義朝の子どもであり、乱に参戦した頼朝も捕らえられて処刑されるところでしたが、清盛の継母である池禅尼の嘆願で助命され、義経(当時は、まだ乳飲み子の牛若丸)らも助命されました。ここで、助命した義朝の子らが成長して、のちに平氏を滅ぼすことになるのは何とも皮肉ですね。
この平治の乱に勝利したことによって、平清盛の力はさらに高まり、平氏政権が成立していくことになりました。