守護は、鎌倉幕府と室町幕府によって設置された武家の職制で、国単位の軍事指揮官・行政官を意味します。追捕使が原型です。源頼朝により守護・地頭の設置と任免権が認められるのですが、これは元々頼朝と敵対関係になった「源義経を追捕する」ことが名目となって認められました。後白河法皇は、平家が滅亡したあと、鎌倉の勢力がただ強くなることを懸念し、義経と頼朝を仲違いさせようと画策します。この中で、義経に「頼朝追討の院宣」を出してしまったのですが、頼朝の名代として、北条時政が大軍を率いて京都に上洛すると、この院宣を後白河は撤回します。「義経に脅迫されて出しちゃったんだ、ごめんちゃい」としたわけです。そこですかさず「義経はとんでもないやつですね!それは朝廷としても放置できませんよね。鎌倉幕府が追捕します。そのために全国に守護を配置していいですよね?断る理屈ありませんよね?」ということで、認めさせることに成功。その後、幕府の職制に組み込まれました。室町時代にも残りますが、織豊政権成立後に自然消滅。守護の職務は、軍事・警察的な職務に限定され、国司の行政への関与や国衙領の支配は禁じられましたが、在地武士の被官化は次の室町時代に進展しました。
ざっくり用語解説
守護
関連する学び直しノート
白河上皇による院政の始まりと武士の台頭
平安時代後期、藤原頼通以降、藤原氏を外戚としない天皇が即位し、天皇を譲位した後の上皇が政治を担う「院政」が始まり、藤原氏の影響力は低下していきます。 後三条天皇の即位と荘園整理 白河上皇による院政 鳥羽上皇による院政の継続 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
05.武士階級の台頭 #13
平氏の滅亡と鎌倉幕府の成立|武士による政権の確立
平安時代末期、保元の乱は武士の助力無しでは解決できなかったため、その後武士の存在感が高まり、平清盛を中心とする平氏が勢力を高めていきます。 しかし、平氏は、藤原氏の摂関政治の形を踏襲し、貴族社会と徐々に対立を深めたことで内乱が勃発し、最終的に源頼朝によって日本で初めて武士による武士のための政権が誕生することになります。 保元の乱と平治の乱 源平の争乱と平家の滅亡 鎌倉幕府の成立 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
05.武士階級の台頭 #14
北条氏による執権政治と承久の変
鎌倉幕府が成立した後は、北条時政ら北条一族が実権を握る執権政治が行われました。源氏将軍の時代が3代で終わりを迎えたことで、朝廷は承久の変を起こし、幕府に対して反乱を起こしますが、幕府はこれを圧倒します。 北条一族による執権政治 承久の変:朝廷の幕府に対する反乱 御成敗式目の成立 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
05.武士階級の台頭 #15