金 玉均(きん ぎょくきん、キム・オッキュン)は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者です。開明派(開化派)として知られ、朝鮮から初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力し福澤諭吉などに「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれる貢献を残しました。
1872年に科挙文科に合格し官界に入り、1882年2月から7月まで日本に遊学すると、福澤諭吉の支援を受けました。1882年10月、壬午事変後に日本と朝鮮の間で済物浦条約が締結されると朴泳孝らに随行して再度日本を訪れる機会を得ます。
たびたび日本に訪れたことから、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指す必要があると考えます。1884年の清仏戦争が勃発すると、清の介入が手薄になる好機と捉え、日本の援助も受けて閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こしましたが、清の速やかな介入で失敗。わずか3日間の政権で終了しました。
金玉均は何とか日本に亡命し、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島などを転々とした後、清の実力者・李鴻章に会うため上海に渡ると1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮の高官によって射殺されました。
金玉均の遺体は、朝鮮に移送され、その死体は切り刻まれて、晒されてしまいました。