三国干渉(さんごくかんしょう)は、1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して遼東半島を清に対して返還するように要求した勧告です。
それまで西洋列強は清の衰退に乗じて「中国分割」を進めてきましたが、領土の割譲は香港などの一部例外を除いて進んでいませんでした。清国内での抵抗を危惧して露骨な領有権要求を控えていたわけですが、下関条約における日本の要求は、この西洋列強の「暗黙の了解」を無視するものであったため、西洋列強としては見過ごせない事態でした。
日本寄りの姿勢をもっていたイギリスもあくまでも不干渉の立場をとるだけで、ロシア・ドイツ・フランスの干渉を止めるための援助・支援はできないとなり、日本は三国干渉を受け入れて遼東半島の返還に応じました。
三国干渉以降、西洋列強は、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになりました。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益や、特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を獲得していったのです。日本はまあダシに使われたって感じですね。
・ロシア
→1896年に秘密協定である李鴻章-ロバノフ協定を結び、1898年、遼東半島南端の旅順・大連を租借
・ドイツ
→1897年に宣教師殺害を理由に膠州湾を占領、翌年には租借
・フランス
→1899年に広州湾一帯を租借
・イギリス
→九龍半島・威海衛を租借
・アメリカ
→1899年門戸開放宣言を発表して、中国に関する門戸開放・機会均等の原則を求める(俺にも一枚、かませろ!)
日本も防衛上最低限の要求として、新規獲得した台湾のすぐ隣にある福建省を他国に租借、割譲しない約束を清に取り付けました。しかし、朝鮮ではこの三国干渉の結果、日本の軍事的・政治的権威が失墜してしまい、閔妃など親露派が台頭してしまったのです。