日野富子(ひの とみこ)は、室町時代後期から戦国時代初期の女性。室町幕府の第8代将軍・足利義政の正室(御台所)で、第9代将軍・足利義尚の母です。1455年に義政と結婚しますが、1459年の第一子男子は生まれたその日に夭折。1462年・1463年に相次いで女子を産みますが、なかなか男子が生まれません。
さっさと将軍をやめて政治よりも文化活動に勤しみたい夫・義政は、1464年に実弟の足利義視を仏僧から還俗させてまで、自分の後継者に据えました。その後見人には、幕府の実力者である細川勝元を配置します。しかし、ここで1465年に富子は、待望の男子・足利義尚を産んだのでした。何とか自分の息子を後継者にしたい富子は、義尚の後見人に、幕府の実力者で細川勝元と対抗している山名宗全を据えました。この室町将軍家の後継者争いに、畠山氏・斯波氏の家督相続問題、勝元・宗全の対立などが複雑に絡み合って、応仁の乱が勃発したのでした。
義尚が数え9歳になった1473年、義尚は父・義政から将軍職を譲られて、はれて室町幕府・第9代征夷大将軍となりました。富子としては、ほっとしたことでしょう。しかし、富子が溺愛した義尚は1489年に病没してしまいました。息子の急死に富子と義政は意気消沈しましたが、義尚の対立候補だった義視と富子の妹・良子の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立しました。夫・義政は息子のあとを追うように翌1490年に没すると、10代将軍足利義稙の後見人となった義視と、権力を持ち続ける富子との間で争いがおさまりません。1491年に義視が死ぬと、今度は親政を開始した義稙とも富子は敵対しました。
明応2年(1493年)4月、義稙が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義稙を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けました(明応の政変)。その後、1496年、富子は京都で死去しました。