足利義教(あしかがよしのり)は、室町幕府第6代将軍で、足利義満の息子、義持の弟です。義教は他の兄弟たちと同じく出家していましたが、兄・義持が危篤状態となると将軍後継候補となり、石清水八幡宮での籤引きによって選出されました。
こういった将軍選出の経緯から「籤引き将軍」と呼ばれたり、「籤引きで選ばれたやつが将軍になるんだったら、俺だって将軍になる権利があらぁ!」と鎌倉府の足利持氏が将軍位に色気を出すなど、政情不安が落ち着きません。さらに正長の土一揆も起きるなど、なかなか大変なスタートとなりました。
こんな感じだったので、義教は将軍に正式に就任すると、なかなか強面。強硬な政治姿勢を見せます。
まず、宗教勢力に対しては、比叡山延暦寺が足利持氏と通謀して、義教を呪詛しているという噂が流れると、比叡山を包囲しました。延暦寺代表4人を捕らえて首をはねたところ、この仕打ちに激高した延暦寺側は、根本中堂に火をかけて24人の山徒が抗議の焼身自殺を遂げます。さらに、長年ことあるごとに蠢動していた鎌倉府との対決姿勢を鮮明にし、永享の乱と結城合戦で、鎌倉公方の足利持氏とその子どもたちを滅ぼしました。その他、勢力を強めている守護大名たちの所領を没収するなどして、義教は室町幕府の力を強めようとしました。
こういった一連の義教の強硬姿勢に恐れをなしていた赤松満祐・教康親子は、義教を迎えて饗応したいと申し出ます。義教を自邸に迎えて宴もたけなわ、門が閉じられ甲冑を来た武者が乱入し、義教は首をはねられて死去しました。享年48歳。万人恐怖と恐れられた苛烈な権力者のあっけない最期でした。