ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

日本史の学び直し.com

  • 日本の夜明け
  • 大和王権と古墳文化
  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
  • 武家社会の動揺
  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
  • 発展する経済・文化
  • 揺らぎ始める幕藩体制
  • 明治維新と近代国家の形成
  • 脱亜入欧、日清・日露戦争
  • 第一次世界大戦
  • 第二次世界大戦
ラジレキ

足利持氏

足利持氏(あしかがもちうじ)は、第4代鎌倉公方です。足利尊氏の曾孫ですね。なので、室町将軍家から見たら、親戚だけど結構他人になってきているわけです。

離れているとはいえ、室町将軍家という本家から見たら分家なので「持氏」という名前を見てわかるとおり、4代将軍足利義持の「持」の字をもらって(偏諱を賜って)、従属の意志を示しています。しかし、足利義持が亡くなって、籤引きで義持の弟である義教が将軍になると、「あいつが将軍になるなら、この私、持氏にだって将軍になる権利がある!」と主張します。

もともと、歴代鎌倉公方は、隙あらば「我こそ将軍に!」という動きがあり、2代目鎌倉公方の足利氏満も、3代目鎌倉公方の足利満兼も中央の室町幕府への謀反や挙兵などが起きていました。理由としては、鎌倉府・鎌倉公方を室町幕府が設置したのは、南北朝の動乱という戦乱の時代において、遠隔地における軍事行動がスムーズにできるようにするためでした。中央集権よりも、スピーディーに動けるように分権したわけですね。

しかし、南北朝の動乱もおさまってくれば、中央としては、関東の支配権を直接自分たちで握りたいと思うわけです。もちろん、鎌倉としては奪われてなるものか!ともなるわけで、この対立構造の上で、長年溜まりに溜まった室町将軍家と鎌倉公方家双方の対決姿勢は、6代将軍義教と、4代鎌倉公方持氏との間でいよいよのっぴきならない状況へと至ります。

そして、1438年。持氏は自分の嫡子を元服させるにあたって、その名前を「義久」と名付けました。従来であれば、2代目鎌倉公方「氏満」、3代目鎌倉公方「満兼」、4代目「持氏」のように、代々室町将軍の名前を拝領して名付けていましたが、持氏はこの慣例を無視。すなわち、「義教なんて、将軍として認めねーぜ」という姿勢を露骨に示したことになります。鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏は、「この命名はダメです!戦争になります」と持氏を諫めて元服式に参加しませんでしたが、持氏はガン無視で、元服式を挙行しました。上杉氏が鎌倉を引き上げて自分の領国にこもると、持氏はこれに討伐軍を差し向けました。

鎌倉府の内部でも対立が生まれて、一枚岩になっていないことを確認した足利義教は、「鎌倉公方を滅ぼすチャンスじゃ!」と関東への出兵を命じ、朝廷からも持氏追討の綸旨を発給させて、持氏を朝敵としました。持氏は戦いに敗れ、傘下の部下たちも朝敵となった持氏から離反するものが相次ぎ、孤立無援となります。結果、追い詰められた持氏と嫡子義久は自害して果てました。

関連する学び直しノート