足利義持(あしかがよしもち)は、室町幕府第4代将軍で、足利義満の嫡男です。父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回り、室町幕府の歴代将軍の中では比較的安定した政権を築き上げました。彼の将軍在職年数は28年に及び、室町将軍中では最長記録です。しかし、義満在世中は、特に義満が義持の異母弟である義嗣(よしつぐ)を偏愛していたため、親子関係は非常に悪かったです。義満が死去すると、征夷大将軍である義持と、義嗣の間で足利家の家督・家長をどちらが相続するかでもめましたが、守護大名らの支持もあって何とか義持が相続に成功しました。
父との関係が悪かったためか、父・義満の方針を撤回することが多く、明の使者を追い返して「日本国王」を拒絶した点が外交上の特筆事項でしょう。明側はこれに怒り、日本遠征を計画するほどでした(結局実行はされませんでしたが)。また、上杉禅秀の乱という反乱が関東で置きましたが、これを鎮圧。関係したとされる義嗣も殺害し、何とか幕府政治を安定化させたと思ったら、今度は鎌倉府とも対立が起きて、なかなかストレスフルだったと思います。
息子の義量(よしかず)を5代将軍としましたが、数え19歳で急死してしまったため、他に息子もいなかったことから引き続き義持が政治を見ますが、後継者不在のまま、義持は危篤状態となりました。困った近臣たちは義持に「将軍を誰に継がせたらいいですか?」と尋ねますが、義持は「俺が選んだところで、お前らが気に食わんかったら言うこときかんやろ」と言って、意中を明かしません。多分、義持の本心だったんだとも思います。そのため、困った近臣たちは、「じゃあ、義持様の弟たち4人から籤引きで選んではどうでしょうか?」と提案されて、義持も「俺の死後に籤引きの結果が分かるようにするならいいよ」となりました。そのまま、義持の病状は回復せずに43歳で死去。死因は敗血症と推測されています。