のちに第38代天智天皇。舒明天皇と皇極(斉明)天皇の息子として生まれます。
青年となった中大兄皇子は、ある日蹴鞠を楽しんでいました。すると勢いあまって靴まで飛んでいってしまうんですね。ピューンとね。そうするとそれをよく知らない一回り上のおっさんが拾ってくれて話しかけてきたんです。皇子的にはめっちゃ身分低そうなおっさんだけど、親切にしてくれたから丁寧に感謝を伝えたところ、このおっさんがなんだかしらないけど、めちゃくちゃ感激してくれてこの皇子と一緒に大業を成そうと決意するんです。このおっさんが実は中臣鎌足なんですね。中大兄皇子と中臣鎌足の出会いのシーンです。
仲良くなると鎌足は遂に「蘇我氏滅ぼしませんか?」と皇子を誘います。皇子も「やるっきゃない!」って話に乗っていきます。
二人は何度も密会するとあやしまれるんで、鎌足は皇子を南淵請安先生の塾に誘い、二人は塾への道すがら、詳しい計画を練ったといいます。仲良しか。
その後は、645年の乙巳の変で、二人は望みをかなえて、権力を握りました。
中大兄皇子は天皇位にはつかずに、叔父さんや母さんに天皇をやってもらいながらも自分が中心になって政治を進めていきます。
ところが、国内を固めている最中になんと海の向こう朝鮮半島では、長年の友好国である百済が唐・新羅連合軍によって滅亡させられてしまったのです。660年のことでした。朝鮮半島全体が日本の潜在敵国の勢力下に陥ってしまうことは、日本にとっては避けたい事態でした。日本には人質として百済王族がいたり、百済からの移民も多くいたことから、百済の敗残兵を支援することを決定。朝鮮半島に軍を送ることにしましたが、663年の白村江の戦いにて、日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗北してしまいました。
ぼろ負けした中大兄皇子は「唐・新羅が攻めてくる!」と恐怖し、九州の防衛を固めるとともに、都を近江の方へと引っ込ませることにしたのでした。
このあたりでようやく中大兄皇子は自分が天皇に即位することにして、668年に第38代の天皇、天智天皇となったのでした。
天皇となった数年後の672年に天智天皇が死去すると、その後継者の地位をめぐって古代最大の内乱が勃発することとなったのでした。