明智光秀(あけちみつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。前半生は謎に包まれています。いちおう、美濃(岐阜県南部)の明智荘の明智城の出身と言われていますが、諸説アリです。どうやら越前国の朝倉氏を頼っていて、そこにやってきた足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになりました。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となり、天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献しました。信長によって大大名へと出世しましたが、天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引きました。この本能寺の変についての動機もまた、諸説アリといったところですね。その後、わずか十数日で、信長の仇討ちのために、対毛利戦から引き返してきた羽柴秀吉らと戦って、敗れて討ち取られました。ただ、当時光秀の首を確認したという文献資料が残されていないことから、生存説もあります。前半生も謎、本能寺の変の動機も謎、死亡確認もない、ということでなかなか不思議な人物です。
ざっくり用語解説
明智光秀
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