文禄・慶長の役とは、すなわち、豊臣秀吉による朝鮮出兵のこと。ただし、豊臣秀吉の目的としては「唐入り」、中国征服でした。信長の後継者である秀吉は、経済を重視し海外貿易を拡大したいという野望がありました。しかし、中国は古くから朝貢貿易という形しか認めず、自由貿易など、東アジアにおいては夢の又夢という状態でした。この状況を打破するためには、「明を征服するしかない」と秀吉は考え、まず朝鮮に「唐入りのためにおまえんとこの道を通らせろ」と言いました。朝鮮としては、明との関係は良好であり、自由貿易などしたら、倭寇(海賊)が跋扈するだけでありとてもじゃないが、秀吉の要求など受け入れられないとして拒絶します。明や朝鮮からしたら、秀吉なんてのは倭寇の大首領みたいな認識だったのでしょう。ところが、日本というのは100年を超える戦国の世だったわけで、めちゃくちゃ戦争に特化した時間を過ごしていたわけです。戦争というのは、武器というハードも重要ですが、日本は火縄銃の量も非常に多いですし、それ以上に武器の扱いや戦争経験豊富な兵たちがたくさんいたのです。ソフト面でも充実していたのですね。なので、秀吉は、朝鮮を征伐して、そして明を倒し、自分は寧波(ニンポー)を拠点に自由貿易をしまくるぞと考えていました。当初は、朝鮮王国を縦断して快進撃となりましたが、日本よりもはるかに厳しい半島・大陸の冬と、明からの援軍によって戦線は膠着。最終的には、秀吉の死をもって文禄・慶長の役は日本軍の撤退で幕を閉じました。
ちなみに唐入りは、秀吉の誇大妄想だと言われますが、日本軍によって国力が衰退した朝鮮も明も、その後、大陸で勃興した少数民族である満州族の打ち立てた清によって征服されることになりました。朝鮮は清の朝貢国となり、明は農民反乱で滅亡後に復興もままならずに清によって征服されたのでした。少し歴史の動きの順番が狂っていたら、秀吉の唐入りは成功したのかもしれません。