武田勝頼(たけだ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田信玄の四男です。信玄の長男が父との対立で自害し、次男・三男が夭折、盲目などもあり、1573年に父・武田信玄が死ぬといちおう武田家の当主となります。一応といったのは、信玄は「3年間、儂の死を隠せ」と遺言したため、信玄に心酔していた重臣たちからなかなか認めてもらえないという状況に陥ってしまいます。信玄は隠せといったものの、やはり周囲にはバレてしまい、明らかに織田信長や徳川家康は信玄が死んだものと思って挑発してくるわけです。このままじゃいかんということで、武田勝頼と信玄の遺臣たちは、長篠合戦に向かったわけですが、1575年のこの合戦で武田家は大敗北を喫し、有力な家臣たちが死んでしまいます。ただ、このあと武田家は内部結束を整え、織田家・徳川家以外の諸大名たちと連携をしながら、勢力増強に努め、武田信玄時代よりも領国を広げることに成功したのです。そう、武田勝頼は決して愚将だったわけではないのです。しかし、1582年に大挙して、織田家が武田領に侵攻してくると、家臣団の離反もあってあえなく天目山にて自害して果てました。
ざっくり用語解説
武田勝頼
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