バテレン追放令(バテレンついほうれい)は、1587年7月24日に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書のことです。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味。豊臣秀吉は元来、織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していましたが、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となっていて、その長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている事などを知らされたとされます。これをきっかけに秀吉はポルトガル側の通商責任者と会見した際に、宣教師の退去を命じました。その一方で、貿易の自由も同時に表明します。貿易の果実は楽しみつつ、あくまでもバテレンだけを追放しようとしたわけです。しかし、貿易は自由なままなので、バテレンが正体を隠して入り込む余地は残りました。
ざっくり用語解説
バテレン追放令
関連する学び直しノート
織豊政権:天下統一への道と近世の幕開け
応仁の乱以降、下剋上のムードが広がり、未曽有の混沌とした時代に突入した日本。数々の戦国大名たちが相争う中、頭角を現したのは尾張の織田信長でした。 織田信長が始め、豊臣秀吉によって完成された、全国統一。 本記事では、近世の幕開けへと続く道のりを詳しく掘り下げています。 織田信長がいかに権力を拡大したか 経済政策「楽市・楽座」とは 天下統一達成までの道 太閤検地と刀狩の狙い 秀吉が海外進出を試みた理由 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
08.幕藩体制の始まり #20
江戸幕府の成立︰徳川家康による秩序と統治体制
豊臣秀吉の死後、政権を握ったのは徳川家康でした。関ケ原の戦いで勝利した家康は、その後豊臣家を滅ぼし、約260年も続く江戸幕府の礎を築いたのでした。 本記事では、徳川家康が江戸幕府を成立させるまでの流れと、江戸幕府がいかにして安定的な統治の基盤を構築したのかを解説します。 江戸幕府が成立するまでの流れ 江戸幕府の統治体制 江戸幕府の外交政策 鎖国に至るまでの背景 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
08.幕藩体制の始まり #21