足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍です。父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。第13代将軍・足利義輝は同母兄にあたります。元々は、兄貴がいたので仏門に入りましたが、1565年の永禄の変で足利義輝が殺害されると、還俗して義秋となのり、越前の朝倉義景の庇護を受け、義昭に改名しました。その後、上洛の兆しをみせない朝倉家から織田信長に乗り換えます。信長に擁立されて上洛を果たすと、第15代将軍に就任しました。この時は、義昭は非常に信長に感謝をして、信長のことを「御父」と呼ぶほどでした。それだけでなく、室町幕府の副将軍、あるいは管領など望みの役職につけると申し出ますが、信長はこれを辞退しました。室町幕府の一員になるつもりは当初から信長にはなかったのかもしれません。やがて、実力者信長と義昭の関係は、協調から対立へと変わっていってしまいました。義昭は、対信長の大名たちを糾合して信長包囲網をひきましたが、信長はこの逆境を打破し、1573年に武田信玄が死去すると、京都から義昭を追放しました。歴史上は、これをもって室町幕府の滅亡としています。しかし、義昭自身はまだ征夷大将軍の地位にあり、京都から追放された後は、中国地方の毛利家の庇護のもとで信長への対抗を続けます。本能寺の変で信長が横死し、豊臣秀吉が政権を握ると、権威を欲した秀吉が「俺を養子にしないか?(征夷大将軍の継承させろ)」という要望を出しますが、これを辞退。帰京と1万石の所領を認められるにとどまりました。もし、受けていたら莫大な経済的メリットを享受できたかもしれませんが、秀吉を養子にする(征夷大将軍の地位を足利の血統から奪われる)のは義昭のプライドが許さなかったのかもしれませんね。秀吉が天下を制する状況になったため、義昭は征夷大将軍の地位を返上しましたが、待遇としては前将軍として大大名以上で遇されて、貴人としての余生を送ることができました。
ざっくり用語解説
足利義昭
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