軽皇子(後の孝徳天皇)の皇子として誕生。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。
難波に置いてけぼりにされた父・孝徳天皇。父が失意のうちがなくなると、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装います。のちに完治したとして飛鳥に有間皇子が戻ると、蘇我赤兄(入鹿の従兄弟、蘇我本家の別流)が近付いてきて、中大兄皇子の失政を指摘し、自分は有馬皇子の味方であると告げます。すると、有馬皇子は喜び、中大兄皇子を打倒する意思を赤兄に明らかにしました。
ところが、これは罠だったのです。蘇我赤兄が有馬皇子に近づいてのは、中大兄皇子の意を受けたものだったのです。有馬皇子の謀反の意思は中大兄皇子に密告され、有間皇子は捕らえられてしまいます。
中大兄皇子に尋問された有馬皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたといわれます。尋問の翌々日に絞首刑に処せられました。享年19。
万葉集に残された有馬皇子の歌に
「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
というものがあり、「家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。」という意味で、この「旅」とは捕縛されて護送されていることを指しています。涙を誘いますね。(ちなみに民俗学者・折口信夫によるとこの歌は後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかとも考えられています。)