「みなぶち の しょうあん」。608年、遣隋使小野妹子に従い高向玄理、僧旻ら8人の留学生、留学僧の一人として中国に留学。640年に高向玄理とともに帰国。当時最先端である中国の学問知識を日本に伝えるべく、帰国後に塾を開きました。
中大兄皇子と中臣鎌足は南淵請安の塾に通う道すがらに蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられています。そのため、南淵請安が伝えた知識が大化の改新に大きな影響を与えたわけですが、高向玄理や僧旻と違って、彼自身が新政府に加わった痕跡がないことから、死去した時期はそれ以前であるという説が有力。