観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1350年から1352年にかけて起きた、足利政権の内紛によって行われた戦乱です。
初期の足利政権においては、軍事指揮権を持つ将軍・尊氏を高師直が補佐していました。一方、尊氏の弟・足利直義が政治実務を担っていました。軍事指揮権を持つ尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついて、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる派閥を形成していくことになります。
直義は、訴訟実務(荘園の権利関係が主)を扱っていたため、有力御家人や公家・寺社含めた既得権益の保護、秩序の維持を指向している一方、高師直などの南朝方との戦いを遂行していた側は自らの武功に応じた恩賞(荘園・土地ですな)をもらえることが当たり前だと考えていました。
こういった情勢下、直義派と師直派の間に権力闘争が発生します。1349年にまずは直義が師直の排除に動き、これに対し師直は軍勢を率いてクーデターを起こして逆に直義が出家・引退に追い込まれてしまいました。政務の実務責任者は、尊氏の嫡男である義詮(よしあきら、のち二代将軍)に交代しました。ここまででは一応、大きな血は流れずに、直義失脚という政変で終わりそうでした。
一方で、この政変を知った直義の養子となっていた足利直冬(ただふゆ、実父は尊氏)は、直義に味方するために九州において、南朝方の武士も糾合して翌1350年に挙兵しました。尊氏が追討の軍勢を挙げて出兵した隙をついて、直義は京都を脱出し、高師直討伐を近畿地方の武将たちに呼びかけます。驚いた尊氏は、直冬討伐どころではなくなって近畿地方に戻り、北朝の光厳上皇に直義追討令を出してもらいます。そうならばと、直義の方は南朝方に降って、対抗姿勢を見せました。南朝方を含む、直義の軍勢が優勢な状況だったため、尊氏は和睦を提案。高師直とその一族は直義に引き渡されて、高師直は謀殺されてしまいました。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任命され、血は流れてしまったものの、足利政権は平穏を取り戻したようにみえました。
しかし、そうは問屋が卸さない。この争乱の中で、直義は南朝に帰順を示したのは書いたとおりです。そのため、直義は南北朝の和議を進めようと交渉しますが、これが不調に終わってしまいます。また、高師直は排除されたものの、南北朝の動乱において武功を立てた新興勢力はそのまま残っており、保守派の直義の政治に対する新興勢力の不満は解消されていません。さらに一連の流れの中で、兄・尊氏ともうまくいかなくなってしまった直義。彼から多くの武将が離反していったため、直義は京都にいられなくなって、鎌倉へと脱出を余儀なくされました。
京都から直義派はいなくなりましたが、九州には直義派の直冬が勢力を伸ばし、関東では直義が再起の準備を進めます。さらに吉野の南朝という敵もいるため、尊氏を中心とした室町幕府は、西・南・東を敵に囲まれた状態となってしまいました。事態打開のために、尊氏はなんと、南朝に降伏。尊氏は、北朝が持っていた三種の神器を南朝に渡し、一時的に皇統は、南北朝は南朝によって統一されることになりました。これを「正平の一統」と呼びます。窮地を脱した尊氏は、関東へと向かって直義を撃破。敗れた直義は幽閉され、1352年に毒殺と噂される急死を遂げました。
これで、観応の擾乱は一応の決着となりました。
しかし、その後も南北朝の動乱は、治まりません。「正平の一統」により、南朝の勢力が強まりました。南朝は、降伏したとはいえ足利一族がまだ支配していた京都に攻め上がり、陥落させることに成功。この際に、北朝方の上皇ら皇族たちを南朝の本拠地に移送しました。足利勢は、その後、何とか京都を奪回することに成功しましたが、三種の神器もなければ、北朝方の上皇たちもいないため、南朝と争うための大義名分がなくなってしまいます。ここで、尊氏は、光厳上皇、光明上皇の生母を治天の君として、崇光上皇の弟を後光厳天皇として即位させました。まあ、もう無茶苦茶な状況ですよ。言ったもん勝ちみたいな。
なんとか、北朝を再整備した尊氏に、1354年には九州から直冬が京都に攻め込むべく蜂起。翌1355年に京都までやってきましたが、なんとかこれも蹴散らすことができました。その後もまだまだ動乱は続いていくのでした。