守護領国制(しゅごりょうごくせい)とは、室町時代の守護大名による一円的な領国支配体制を指す歴史用語です。室町時代の守護は、当初(14世紀中葉)、幕府から数年ごとに補任されていて、比較的頻繁に守護職は交代されていました。14世紀末ごろになると、一定の氏族がその国の守護職を相伝(世襲)し、守護職が固定化していきます。さらに同時期までに、守護職には軍事・警察的職権のみならず、半済や守護請といった経済的利得権も付与されていきました。その結果、室町時代の守護は、領国内の在地領主(国人)、土地、人民(百姓など)に対する一円支配(一元的な支配)を強化していき、守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称して、守護領国制というようになったのです。また、室町幕府はいわばこのような守護大名による連合政権であるとも理解できます。
ざっくり用語解説
守護領国制
関連する学び直しノート
2度の元寇と困窮する鎌倉武士
鎌倉時代は、承久の変以降、比較的安定した時期となりましたが、海外ではチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が大きく成長していました。チンギス・ハンの孫フビライは、日本に朝貢を要求し、日本はこれを無視したことから、モンゴルの襲来を受けることになります。 元寇:元の襲来とその背景 元寇勝利の代償|武士たちの困窮 武士救済のための永仁の徳政令とその影響 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
06.武家社会の動揺 #16
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政|天皇中心政治の復活と武士の不満の高まり
鎌倉幕府の弱体化が進み、後醍醐天皇は足利尊氏ら武士の協力を得て、倒幕に成功し、建武の新政を始めていきます。 しかし、建武の新政は武士に十分な恩恵がなかったことや急進的な改革であったことから、多くの人々のの不満が高まり、3年で終わりを迎えます。 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政 天皇中心の建武の新政とその失敗 足利尊氏の反乱と南北朝時代の始まり 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
06.武家社会の動揺 #17
南北朝時代の動乱と室町幕府の権力確立
後醍醐天皇と足利尊氏の対立によって、日本は南北朝に分裂し、60年間の動乱が続くことになります。 室町幕府3代目将軍である足利義満は南北朝の合一に成功し、守護大名の勢力を押さえながら、明との勘合貿易も推し進めました。 南北朝の動乱と幕府の内部抗争 足利義満による南北朝の合一 明との国交回復と勘合貿易 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
06.武家社会の動揺 #18