加藤高明(かとう たかあき)は、外交官、政治家です。外務大臣(第15・18・25・27代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任しました。
第二次護憲運動の高まりを受けた第15回衆議院議員総選挙では、護憲三派勢力が圧勝。そのため、清浦奎吾首相は辞意を表明し清浦内閣は退陣。その代わりに組閣命令を受けた加藤高明は大正13年(1924年)6月11日、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部からなる護憲三派内閣を率いる内閣総理大臣となりました。ちなみに加藤高明は初の東京帝国大学出身の首相です。
1925年に選挙公約であった普通選挙法を成立させたり、日ソ基本条約を締結してソ連と国交を樹立するなど、成果をあげました。一方で、同年1925年には共産党対策から治安維持法も成立させています。この法規は後に言論弾圧の口実として使われ、特に戦時中に乱用されたとして治安維持法反対派からは強く批判されています。しかし、治安維持法擁護派からはこの時期に労働運動が多発しており、またロシア革命の影響から普通選挙法によって共産主義が爆発的に広がる可能性もあったことから、治安維持法とのセットでないと普通選挙法案が貴族院で否決された可能性も高く、当時の各国も同様の法規を有していたことからやむを得ぬものであったとする意見もあります。
加藤高明内閣は高橋是清、若槻禮次郎、濱口雄幸、幣原喜重郎、犬養毅を擁し、以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、この慣習は五・一五事件まで続きました。