田中 義一(たなか ぎいち)は、日本の陸軍軍人、政治家です。陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)などをを歴任しました。
1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こり、昭和金融恐慌が発生すると、若槻内閣は同年4月17日に総辞職を表明。それに代わって立憲政友会総裁の田中義一が4月20日に組閣しました。
田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となりました。蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化に成功します。
田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更します。田中は外務大臣を兼任して、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせます。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されていきます。
しかし、田中は、積極一辺倒ではなく、ある程度の協調が望ましいと考えていて、やがて森と対立するようになってしまい、そこに事務方の外務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂だったのです。
こういった状況下において1928年6月4日に起きた張作霖爆殺事件に際して、田中は日本の国際的な信用を保つためにも容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したのですが、陸軍の強い反対に遭ったため果たすことができませんでした。
事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を昭和天皇に奏上します。このような尻切れトンボ的な内容となってしまったのは、真相追及や厳正な処分に陸軍の反発や日本の恥をさらすとして反対する閣僚がいたためと思われます。
この報告を受けて昭和天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問。なお、田中は自分の行為を「奏聞」「上聞」(天皇に経緯を報告する)と捉えていたようだったのですが、昭和天皇の方は「上奏」(天皇に処理を進言し裁可を求める)と捉えていたようでした。
このあと奥に入った天皇は、同年に就任したばかりの鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」との旨を述べたと言います。これを鈴木が田中に伝えたところ、田中は諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職の決意を伝え、7月2日に内閣総辞職。
内閣総辞職からわずか3カ月足らずの1929年9月29日に、田中義一は急死しました。