第一次護憲運動(だいいちじごけんうんどう)とは、1912年に起きた二個師団増設問題によって、第2次西園寺公望内閣が総辞職しました。しかし、世間は、この政変を陸軍や藩閥勢力の横暴と受け取り、増師反対の機運が高まりました。1912年12月に交詢社による懇談会において「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとして護憲運動が開始されます。
護憲運動の開始直後に、桂太郎が総理大臣に任命されましたが、この桂の総理就任に、世間から反対の声が高まります。特に反対の声は、新聞を通じて全国に広まり、のちに「憲政の神様」と呼ばれる犬養毅と尾崎行雄が運動の中心的役割を担うことになりました。
一方、桂は新党「立憲統一党」(のちの立憲同志会)の創設を1913年1月に発表しますが、桂内閣の倒閣をめざす憲政擁護運動はとまらず、運動参加者が帝国議会を包囲するまでとなり、同年2月に桂は総辞職を決断。退陣後、後継首相に海軍出身の山本権兵衛が就任しました。