幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)は、日本の政治家、外交官です。外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員(勅選議員[1])、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)を歴任しました。
ワシントン会議においては全権委員を務めました。外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初で、以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任します。
幣原による1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立しました。幣原外交では、ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針をとります。
そのため、1925年に在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対しては、奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっています。単純な平和外交ではありませんでした。
戦後の1945年10月9日には首相に指名され、就任。当初本人は火中の栗を拾うような状況を嫌がっていましたが、吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあって引き受けました。首相としては、新憲法草案の作成、戦後初の総選挙を実施して、吉田茂にバトンタッチし、自分は無任所の国務大臣として入閣して支えました。