浜口雄幸(はまぐち おさち)は、大蔵官僚出身の政治家です。大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁などを歴任しました。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれていました。
大蔵省に入って大蔵官僚として経験をつみ、1915年には立憲同志会に入党して、衆議院議員に当選します。同志会が憲政会に改組されたのちは、若槻礼次郎らとともに加藤高明を支え、加藤内閣では大蔵大臣、第一次若槻内閣では内務大臣を務めました。若槻内閣総辞職後に、憲政会と政友本党が合併して立憲民政党が結成されると初代総裁に就任しました。
張作霖爆殺事件の責任をとって田中義一内閣が総辞職すると、その後を受けて浜口雄幸は内閣総理大臣に就任し、財界からの信頼の厚い日本銀行の前総裁である井上準之助を大蔵大臣に起用しました。浜口首相、井上蔵相コンビは、緊縮財政政策と金輸出解禁を断行し、ロンドン海軍軍縮条約を結びました。
しかし、金輸出解禁に伴う経済不況と、ロンドン海軍軍縮条約に端を発した統帥権干犯問題などで反発が進み、1930年11月に浜口雄幸は凶弾に倒れてしまいました。1931年8月に没。