田沼意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、大名で、第9代将軍徳川家重と第10代・家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導しました。
家重がまだ将軍となる前から側近として抜擢され、その時はわずか600石の旗本でした。そこから出世を重ね5万7000石の大名にまで昇進しました。約100倍ですね、凄い。
吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、それによって幕府財政は大幅な改善を見せましたが、この増税路線は9代将軍・家重の代には百姓一揆の増発となってしまい、破綻します。農民に対する増税政策では限界がきてしまったのです。
そのため、田沼意次は、米以外の税収入確保を進めます。株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売、印旛沼の干拓に着手するなど、田沼時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない一方で、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税して、金融からも利益を引き出そうといった大胆な財政政策を試みたのです。
しかし、田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策でしたので、諸大名や庶民の反発を浴びてしまいました。また、幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判も起きてしまいます。都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃も生じました。
大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、その一方で賄賂などの腐敗も目立ってしまい、田沼意次の政策に対する批判が強まっていきました。天明4年(1784年)、意次の世子のまま若年寄を勤めていた田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されてしまったことが契機となって、意次の権勢に衰えがみられるようになりました。
天明6年(1786年)8月25日に将軍・家治が死去すると、意次は8月27日に老中を辞任させられ降格。さらにその後、減封・蟄居を命じられてしまいました。田沼意次と同じように、軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保(5代・綱吉の側近)や間部詮房(6代・家宣の側近)が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、苛烈な末路となってしまいました。
将軍・家治の死から2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、意次は江戸で死去。享年70。