寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政2年5月24日(1790年7月6日)、江戸幕府老中・松平定信が寛政の改革で行った学問の統制です。
江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の林羅山登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設と進みました。その後、徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古学(山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠(古文辞学派))や折衷学派などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討される状況となりました。
こういった時代背景の中、朱子学の信奉者である松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すためには、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図るべきだと主張しました。
そこで寛政2年(1790年)5月24日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達しました。また、湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけとします。松平定信の老中辞任後も将軍徳川家斉の意向によってこの政策は継承され、湯島聖堂から学問所を切り離して林家の運営から幕府直轄の昌平坂学問所に変更されました。
ただし、「寛政異学の禁」の本来の趣旨は昌平坂学問所などの幕府教育機関における異学の講義を禁じることを意図しており、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではありませんでした。諸藩の藩校における教育方針を規制するものではなかったものの、とはいえ幕府の動向を見た各地の藩校ではこれにならうものも出てきますよね。長いものには巻かれましょうと、そのため、朱子学に反対する学問を唱えていた儒者は生徒が少なくなり困窮したものもあったといいます。
よく、「西洋の学問を禁止」と思われることがありますが、「正統派朱子学以外を禁止」って感じです。