天明の大飢饉(てんめいのだいききん)は、江戸時代中期に起こった飢饉で、寛永(1642‐1643)・享保(1732)・天保(1833‐1839)の大飢饉と並んで、江戸四大飢饉の一つに数えられています。
元々、東北地方では1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減してしまい、すでに農村部を中心に疲弊していました。そこに天明2年(1782年)から天明3年にかけての冬は異様に暖かい日が続き、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせました。火山の噴火では、成層圏に達した火山噴出物が陽光を遮ったことによって冷害が悪化。農作物には壊滅的な被害が生じてしまい、翌年から深刻な飢饉状態となりました。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと伝わっています。死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状だったといいます。さらに食えない農村部から逃げ出した農民が各都市部へ流入し治安も悪化しました。こういった混乱下、将軍・家治が死去し、田沼意次も失脚の憂き目にあいました。