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松平定信

松平定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中で、寛政の改革を進めた人物です。定信の父は、9代将軍家重よりも将軍に相応しいのではないかとされた吉宗の子・徳川宗武です。そう、定信は8代将軍・吉宗の孫にあたるのです。そして、もし歴史の歯車がちょっと違っていたら「おれが将軍だったのかも」という思いを抱いてもおかしくないポジションにいたのです。定信自身も英邁な人物と評価されており、そのため逆に危険視をされ、「徳川」よりも一段低い、定綱系久松松平家(家康の異父弟の家系)に養子に出されたのです。そのため、徳川ではなく、「松平」定信となったのです。

「松平」になったとはいえ、吉宗の孫であるという事実は変わりませんので、革新派である田沼意次派を苦々しく思っている保守派の大名たちの期待を定信は受けることになり、田沼意次が失脚すると、老中首座となって1787年から1793年まで寛政の改革を実施しました。

期待のホープとして若くして政治を担い、寛政の改革も一定の成果をあげたのですが、自分にも他人にも厳しいエリートの厳粛な政治は後に大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄され、また、幕府のみならず様々な方面から批判が続きました。そのため、「尊号一件」という事件に絡んで、僅か6年で失脚。老中を退任しました。

定信は前任の田沼意次の政策をことごとく覆したとされてきましたが、近年では、寛政の改革による政治は、田沼時代のものと連続面があるとの指摘もされています。

「尊号一件」とは、この寛政の改革の時代は面白いことに、天皇も将軍もどちらも、前任者の息子ではなく傍系から継承がなされました。

天皇は光格天皇、将軍は11代・徳川家斉です。どちらも、前任者が子どもを残さずに死去したためですが、この光格天皇も家斉もどちらも実父がまだ存命でした。普通の父子継承であれば、お父さんは上皇(元天皇)、大御所(元将軍)ということになりますが、彼らの実父は天皇・将軍に就任したことはありません。そのため、天皇の父・将軍の父ではあるものの、朝廷や幕府における処遇は低かったのです。

光格天皇も家斉も「お父さんが家臣たちよりも低い処遇は忍びない。」ということで、光格天皇はお父さんに「上皇(正確には太上天皇)」の尊号を、家斉は「大御所」の尊号を贈りたいと考えて行動に移しました。しかし、The 堅物、厳格主義者の松平定信は、「いやいや、元天皇・元将軍でもない人に元天皇を意味する「上皇」、元将軍を意味する「大御所」なんて贈れるわけないでしょ!ダメです!」と反対。理屈は通っているものの、人間は感情の生き物です。結果、定信は将軍・家斉から不興を蒙って、失脚と相成ったわけです。

この傍系から継承した天皇・将軍のお父さんをどう呼ぼうか問題で揉めた一連の騒動のことを「尊号一件」といいます。狭義では、光格天皇が実父に上皇を贈ろうとした件だけを指します。(なので、「一件」)

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