ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

日本史の学び直し.com

  • 日本の夜明け
  • 大和王権と古墳文化
  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
  • 武家社会の動揺
  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
  • 発展する経済・文化
  • 揺らぎ始める幕藩体制
  • 明治維新と近代国家の形成
  • 脱亜入欧、日清・日露戦争
  • 第一次世界大戦
  • 第二次世界大戦
ラジレキ

徳川家治

徳川家治(とくがわ いえはる)は、江戸幕府の第10代将軍(在任:1760年-1786年)で、第9代将軍徳川家重の長男。幼少期のエピソードとしては、お習字の時に最初に大きく書きすぎて紙の大きさが足りなくなった際に、そのまま畳の上に書いたというものがあります。祖父・吉宗は「制約にとらわれない雄大なやつだ」とその将来を大いに期待しました。

1760年に父・家重の隠居に伴い、徳川宗家を相続して、第10代将軍職を継承しました。家重の死後は、彼の遺言に従って、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励みました。しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命して幕政を任せきりにし、次第に自らは将棋などの趣味に没頭しちゃいます。田沼が優秀だから、「こいつに任せとけばええやん」となっちゃったんでしょうかね。

ちなみに、その趣味の将棋については、詰将棋を作成する才能が優れていて、図式集『御撰象棊攷格』百番を残しています。これについて、詰将棋作家としても名高い現代のプロ棋士の二上達也は、「将棋の腕前自体は、所詮は旦那芸」と切り捨てていますが、詰将棋については「他の追随を許さぬ名作・好作を残している」と絶賛しています。

政治は信頼する家臣に任せて、趣味に勤しんでいましたが、悲しいことに、安永8年 (1779年) に自分の息子で将来の将軍となる徳川家基が18歳で急死。天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を養子とし、天明6年(1786年)8月25日に死去。享年50。(満49歳没)。

江戸幕府において、息子に将軍位を継承できなかった事例が、4代・家綱、7代・家継、10代・家治と全て名前の一番下が、偏と旁に分かれてしまっているというジンクスが生じてしまいました。

関連する学び直しノート