徳川家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年-1837年)。8代将軍吉宗の曾孫にあたります。10代将軍・家治とは、従伯父(実父のいとこ)の関係にあり、家治の実子である家基が若くして死去したため、将軍家を継承する男子が不在となったため、家斉が1779年に家治の養子となりました。その後、家治病死後の1787年に11代将軍となりました。
家斉の治世は、大御所期間も含めて50年を超えました。
まず、就任直後には田沼意次を罷免して、松平定信を老中首座にして寛政の改革がおこなわれます。尊号一件の関係もあり、松平定信を罷免しますが、その後も定信の下で幕政に参与していたメンバーが老中に就任し1817年までは寛政の改革の流れでの政治が続きました。
1817年に寛政の改革メンバーたちの病死・引退が相次ぐと、家斉やその側近たちは宿老たちがいなくなったのをいいことに賄賂政治や奢侈な生活を送るようになります。しかも家斉は度を越した子沢山でして、日本史上、公式に最も子どもの数が多かった人です。16人の妻妾を持ち、儲けた子女は合計53人。そのうち成年まで存命しのは28人ということで、幕府の財政に悪影響をもたらします。さらに異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行しました。
家斉による側近政治は腐敗をみせ、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになりました。天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになります。また同時期にモリソン号事件(1837年)が起こるなど、海防への不安も一気に高まります。こういった不安な情勢下、天保8年(1837年)4月、家斉は、むすこの家慶に将軍職を譲りました。とはいえ、大御所として幕政の実権は握り続けましたけどね。
1841年に死去。栄華を極めた家斉でしたが、最期は放置されたままに息を引き取ったと伝えられ、侍医長が責任を問われ処罰されたそうな。