藤原道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政・関白太政大臣・藤原兼家の五男(正室の子としては三男)でしたが、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父として君臨。藤原摂関政治の全盛期の人物として有名で、特にその絶頂期に詠んだとされる「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という歌を残したことでも有名ですね。
元々、道長には、道隆・道兼という有力な同母兄がいました。一条天皇の妃には、兄・道隆の娘、定子(清少納言が仕えた人)が嫁いでいました。しかし、父・兼家の死に続き、兄・道隆、道兼も相次いで死去し、道隆の息子の伊周(これちか)との政争に勝利して政権掌握に成功しました。
以降、一条天皇には長女の彰子を入内させ中宮に立てます。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮としますが、三条天皇と深刻な対立が生じると、三条天皇を退位させて、彰子の産んだ後一条天皇を即位させて、天皇の外祖父として摂政となりました。摂政になった翌年には、その座を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めつつ、引き続き実権を握り続けたのでした。ということで、実は道長は摂政になったんですが、関白にはなっていないんです。豆知識です。そいて、1018年には後一条天皇に三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆されました。
晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けました。糖尿病を病み、1028年に死去。道長の没後、彰子所生の後朱雀天皇が1036年に、六女の嬉子所生の後冷泉天皇が1045年に相次いで即位し、道長は後一条天皇を含め、68代~70代の三代の天皇の外祖父となりました。