第47代天皇。諱は大炊王。漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいてい、あわじはいたい)と呼ばれます。
天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生しますが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもありませんでした。
756年に没した聖武天皇の遺言によって道祖王が立太子されましたが、757年に孝謙天皇によって道祖王は廃され、藤原仲麻呂の強い推挙により大炊王が立太子しました。
758年に即位しますが、実権は、上皇となった孝謙上皇と藤原仲麻呂に握られます。やがて、道鏡を寵愛するようになった孝謙上皇と藤原仲麻呂が対立するようになります。764年に藤原仲麻呂の乱が勃発して仲麻呂が敗死すると、後ろ盾を失った淳仁天皇は廃位され、孝謙上皇が重祚して、称徳天皇となりました。
翌765年に病死と発表。実際は暗殺だったと考えられています。