藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。左大臣で、藤原南家の祖である藤原武智麻呂の次男。光明皇后の甥っ子ですな。淳仁天皇の時代に改姓・改名し、藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)とも。
737年の天然痘の流行により、光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた父の武智麻呂と叔父の藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂のいわゆる藤原四兄弟が相次いで病死すると、藤原氏の勢力は大きく後退します。
替わって光明皇后の異父兄で疫病禍を逃れた橘諸兄が参議から一挙に大納言、次いで右大臣に昇進して国政を担うようになりました。
その後、藤原仲麻呂も叔母光明皇后の後ろ盾を得ながら、勢力を拡大していきます。孝謙天皇の時代になると、孝謙天皇の後継者を聖武天皇が指名した道祖王から仲麻呂の意中の人である大炊王(のち淳仁天皇)へと交代させることに成功。仲麻呂の専横に不満をもった橘諸兄の息子奈良麻呂も排除して、仲麻呂の勢力は膨張を続けます。760年には皇族以外で初めて太政大臣に就任しました。
しかし、光明皇太后の死去、孝謙上皇による道鏡の寵愛などによって危機感を抱いた仲麻呂は、764年に軍事力の掌握を企図しますが、仲麻呂の動きを事前に察知した孝謙上皇方に先手をうたれてしまいます。平城京を脱出して仲麻呂は再起を図りますが、失敗。琵琶湖に舟を出して逃れようとしますが、斬首されました。(藤原仲麻呂の乱)