ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
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  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
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大坂冬の陣・夏の陣

大坂冬の陣・夏の陣は、途中の講和を挟んで、冬・夏の二回に及んだ、江戸幕府と豊臣家の合戦です。徳川家康最晩年に起きたこの戦いの結果、豊臣家は滅亡し、徳川幕府が絶対的権力を確立しました。豊臣家の滅亡をもって、戦国時代は完全に終焉し、江戸幕府は、武家諸法度禁中並公家諸法度などを制定して、全国を統制しました。

徳川家康は、関ケ原の戦い後や、江戸幕府開府後も豊臣秀吉の遺命を守って、豊臣秀頼に家康の孫を嫁がせました。いつの時点で徳川家康が豊臣家を滅亡させることを決めたのかは諸説あって、紛糾しております。ただ、決めた後はかなり強引に開戦にもちこんでおり、豊臣家がつくった方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」という文字が刻まれていることを指して、「国家安康は、家康の間に安の字が入っている。これは家康を切り裂いて呪詛しているものだ」「君臣豊楽とは、豊臣を君主として楽しむという願いが込められている」というイチャモンをつけて大坂冬の陣の戦端は開かれたのでした。その後、一度は休戦・講和となり、大坂城の「お堀」を埋めることが条件となったのですが、これが「外堀だけ」なのか、「内堀も含めて全部の堀」なのかで揉めて、徳川方は内堀も含めて全て埋めてしまったのです。これでは城が城として機能しない、丸裸にされてしまったことから、再び豊臣家は決戦への覚悟を決め、野外戦で一時は徳川家康を追い詰めますが、力及ばずに、滅亡となってしまったのでした。

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