元弘の変(げんこうのへん)は、1331年に発覚した後醍醐天皇による二回目の倒幕計画です。前回の正中の変とは違って、幕府は後醍醐に対しても厳罰姿勢で臨みます。いったん、後醍醐天皇は笠置山に逃れて倒幕の計画を進めますが、翌年捕らえられて、隠岐に配流されてしまいました。ここまでが狭義の元弘の変です。教科書で言っている「二度にわたる討幕計画の発覚」としては、ここまでのことを指して元弘の変と言っていると思います。
この元弘の変は、元弘の乱とも呼ばれますが、その場合は、1333年の鎌倉幕府滅亡までを指します。後醍醐天皇は隠岐に流されましたが、鎌倉幕府に対する不満は、天皇家だけでなく武士の間にも蔓延しており、後醍醐天皇の息子である護良親王、悪党出身の楠木正成らの活躍により畿内は反幕勢力によって席捲され、鎌倉幕府の有力御家人だった、足利高氏や新田義貞などの離反もあり、鎌倉幕府は滅亡してしまいました。