飛鳥時代の有力軍事氏族である物部氏の長。敏達天皇の時代に大連につきました。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立しました。(ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。)
585年に蘇我馬子が敏達天皇に仏を信奉することを願い出て認められると、その直後に疫病が流行り、物部守屋はこれを「仏なんぞを敬うから、日本古来の神々がお怒りになっている」と解釈して、寺を焼き、僧尼を面罵し、仏像を川に流すということをしました。ちなみにこのときに流された仏像は拾い上げられて、信州の善光寺に祭られているとされています。
その後、敏達天皇が死去し、次代の用明天皇(第31代。敏達天皇の異母弟、母は蘇我氏、聖徳太子のパパ)もわずか数年で亡くなると、皇位継承問題も絡んで、守屋と蘇我馬子は激しく対立。ついに武力衝突が起きました。この戦いの際に蘇我馬子の軍勢に参加していた若き聖徳太子は、四天王の像を彫って、勝利を祈願しました。最終的に守屋は敗死。物部氏は滅亡し、以降蘇我氏の勢力と仏教信仰の波が強まっていくことになりました。
ちなみに聖徳太子は、勝利をもたらしてくれたことに感謝して、四天王寺を建立したのでした。