赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)は、工藤平助が著したロシア研究書です。
当時、ロシア帝国の東方拡大が17世紀中頃から加速し、かなり早い段階でシベリア・満洲近辺まで到達していました。いったん、大陸側では清との間でネルチンスク条約(1689年)によって、拡大の勢いはいったん止められましたが、ロシアは矛先を変えて北方に進出し、東シベリアをさらに進んで、17世紀中にはカムチャツカ半島の領有を宣言。現地に居住するアイヌ民族などとの間で交易やトラブルを起こしつつある情勢でした。
既にロシアのほうでは、日本との接触に備えて、ピョートル大帝が宝永2年(1705年)、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立。1739年にはヴィトゥス・ベーリング探検隊の分遣船団が仙台湾や房総半島沖に接近してきました(元文の黒船)。そして、エカテリーナ2世の治世において、ついにロシア船は択捉島・国後島などで日本に交易を求めて来航するようになります。
一方、日本側はどうだったかというと、アイヌとの交易権を松前藩が独占していて、この既得権益確保のために、蝦夷地以北へ和人が入地することを制限していました。そのため、蝦夷地に関する調査・研究が遅れてしまっていました。
このような状況の下、仙台藩の藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞吉雄耕牛・蘭学者前野良沢らと親交を持ち、北方海防の重要性を世に問うべく、本書を上梓したのでした。
この本が出された当時、江戸幕府で政治改革の主導権を握っていたのは老中・田沼意次で、彼も蝦夷地経略に関心を寄せていて、ロシア人南下の脅威に早急に備える必要性を認識していました。 そこで工藤平助は、なんとか自著が田沼の目に留まるようにトライして1784年に成功。田沼は、さっそく幕府主導で全蝦夷地沿海へ最上徳内らの探索隊を1785年に派遣し、工藤平助の宿願は結実しました。しかし、翌1786年に田沼が失脚してしまい、この探索隊は中途で断絶してしまったのでした。