印旛沼(いんばぬま)は、千葉県北部の利根川下流南岸に位置する利根川水系の湖沼です。
江戸時代に入って、江戸の町を利根川の氾濫から守るための「利根川東遷事業」を実施すると、印旛沼は利根川の下流となったため、印旛沼周辺の村々は水害により大きな被害を受けるようになってしまいました。このため、沼の水を現在の東京湾へ流すという掘割工事と、あわせて当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって干拓事業(新田開発)が企図されました。
まずは、享保9年(1724年)、吉宗の時代にトライしましたが、失敗。次に、天明年間(1781年-1789年)の老中・田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したのですがが天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚によって中断。さらに江戸後期に老中・水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図されましたが、多大な財政負担及び水野の罷免によって中止。江戸期時代を通じて、印旛沼における工事はいずれも成功しませんでした。