阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ)は、奈良時代の遣唐留学生。飛鳥時代の後半、白村江の戦いなどで活躍した阿倍比羅夫の孫です。
若くして学才を評価され、717年の第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に吉備真備や玄昉らとともに留学します。唐では科挙に合格または推挙で登用され、725年以降、唐で任官され、唐の玄宗に仕えました。唐では順調に出世を重ね、また、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人とも親交していました。
733年に第10次遣唐使が来唐した際に、吉備真備や玄昉が帰国の途につくなか、仲麻呂は、唐での官途を追求するため帰国しませんでした。その後も順調に唐で出世を重ねますが、752年第12次遣唐使一行が来唐すると、すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は帰国を願い出ます。玄宗は仲麻呂の才を惜しんでなかなか許可を下ろしませんでしたが、最終的に帰国の途に就くことができました。
しかし、仲麻呂が乗船した帰国船は暴風にあって、南方へと流されて現在のベトナム付近に漂着してしまい日本に帰国することはできませんでした。755年に長安に戻るも、以降日本への帰国は果たせず、770年に唐の地にて没しました。
仲麻呂が望郷の思いをこめてつくった和歌、
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
は百人一首にも選ばれています。