ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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淳和天皇

第53代天皇。在位823‐833年。桓武天皇の第7皇子で、諱、本名は「大伴」でした。平城天皇嵯峨天皇の異母弟にあたります。桓武天皇の死後の後継者順は、平城天皇のあとに嵯峨天皇となっており、嵯峨天皇のあとは、平城天皇の息子を皇太子とする流れとなっていました。しかし、薬子の変が生じて、平城上皇が権力を失うと平城の息子は皇太子を廃されることとなり、その代わりに大伴親王が皇太子となりました。823年に嵯峨天皇から譲位を受けて、即位。ちなみに諱が「大伴」でしたので、古来からの有力氏族である大伴氏は同じ名前は恐れ多いということで、これ以降「伴」に改姓しています。

ここからまだまだ皇位継承はややこしいことになるのですが、淳和天皇は、皇太子に自分の息子ではなく、嵯峨天皇の息子を指名します。めっちゃたすき掛け人事です。兄弟間での譲り合いというか何というか、色々と事情があったのですが、ぐちゃぐちゃですね。そして、淳和天皇のあとに、嵯峨の息子である皇太子が即位すると、今度は淳和天皇の息子を皇太子としました。たすき掛けが続きます。このたすき掛け天皇位即位状態が解消するのは、淳和上皇が840年に死んだ後に起きた842年承和の変を経てからのこととなります。

皇位継承をめぐる状況はごちゃごちゃ・ドロドロしていましたが、淳和天皇の時代は、表面的には比較的平穏な時代でした。清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正しつつ、土地対策を行って、税収の増加に努めました。また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われました。

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