天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団です。イエズス会のヴァリニャーニが発案しました。1584年にポルトガルの首都リスボンに到着、1585年3月にはローマにて教皇グレゴリウス13世に謁見して、ローマ市民権を得ました。1586年にリスボンを出発して、帰路につきましたが、1587年に豊臣秀吉によるバテレン追放令などを受けて、帰国が危ぶまれましたが、1590年に長崎に帰港して、翌1591年には聚楽第(京都における秀吉の巨大邸宅)において、西洋音楽を奏しました。
しかし、やがて時代はキリスト教が禁教化する流れとなり、派遣された4名の少年は以下のような運命をたどったのでした。
・伊東マンショ(主席正使) - 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。1612年長崎で死去。
・千々石ミゲル(正使) - 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
・中浦ジュリアン(副使) - 1633年、長崎で穴吊るしの刑により殉教。2008年、ローマ教皇により福者に列せられる。
・原マルチノ(副使) - 1629年、追放先のマカオで死去。