聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、関白になった豊臣秀吉が京都における自身の政庁兼邸宅として1586年2月に着工され、翌1587年9月に完成しました。九州征伐を終えた秀吉が大坂からここに移りました。1588年5月9日には後陽成天皇の行幸を迎えて饗応し、また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われました。1591年に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となりましたが、1595年に秀次は、秀吉によって高野山に追放させられ、切腹。その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるため、翌8月から聚楽第を徹底的に破却してしまいます。そのため、どんな建物だったのか不明な点が多いのです。
ざっくり用語解説
聚楽第
関連する学び直しノート
織豊政権:天下統一への道と近世の幕開け
応仁の乱以降、下剋上のムードが広がり、未曽有の混沌とした時代に突入した日本。数々の戦国大名たちが相争う中、頭角を現したのは尾張の織田信長でした。 織田信長が始め、豊臣秀吉によって完成された、全国統一。 本記事では、近世の幕開けへと続く道のりを詳しく掘り下げています。 織田信長がいかに権力を拡大したか 経済政策「楽市・楽座」とは 天下統一達成までの道 太閤検地と刀狩の狙い 秀吉が海外進出を試みた理由 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
08.幕藩体制の始まり #20
江戸幕府の成立︰徳川家康による秩序と統治体制
豊臣秀吉の死後、政権を握ったのは徳川家康でした。関ケ原の戦いで勝利した家康は、その後豊臣家を滅ぼし、約260年も続く江戸幕府の礎を築いたのでした。 本記事では、徳川家康が江戸幕府を成立させるまでの流れと、江戸幕府がいかにして安定的な統治の基盤を構築したのかを解説します。 江戸幕府が成立するまでの流れ 江戸幕府の統治体制 江戸幕府の外交政策 鎖国に至るまでの背景 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
08.幕藩体制の始まり #21